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首都高研究家・清水草一の「高速道路」道!【08】平成の首都高は“地獄の渋滞”克服の歴史だった

首都高研究家・清水草一の「高速道路」道!【08】平成の首都高は“地獄の渋滞”克服の歴史だった

地獄絵図のごとき平成元年の首都高

平成が終わり、令和が始まった。「せっかくなのでおめでたい記事を」と編集部から要望されたので、今回はハッピーな内容にさせていただきます!

現在の私は、高速道路マニアとして、ものすごくハッピーだ。この連載では文句ばかり書いているような気もするが、全体としてはウルトラハッピー。なぜなら、日本の高速道路は、この30年間でものすごく便利になったからだ! そこで、平成が始まった頃はどうだったのか、”地獄の記憶”を呼び覚ましてみよう。

平成は昭和64年1月8日に始まった。それは、バブル経済真っ盛りの頃。首都高の渋滞量がピークを記録(現在の約3倍)した時期でもあった。

高いところから見ている分にはキレイなんですけれどね(写真/PIXTA)

昭和時代の首都高は、都心環状線から延びる放射線が、都市間高速道路(東名や中央道など)と接続していく過程だった。昭和46年に東名および京葉道路と、昭和51年に中央道と、昭和60年に常磐道と、昭和62年に東北道と接続。そのたびに「便利になった」と言われたが、そのたびに首都高への流入交通が増えたのだから、当然渋滞は漸増した。昭和62年には、都心環状線の外側を取り巻く中央環状線の一部開通もあったが(江北JCT-葛西JCT間)、特に内回り側は小菅-堀切間の欠陥設計によりすぐに大渋滞となり、「あそこだけは通るな」と言われる始末だった。

私は昭和55年の免許取得以来、常に首都高4号新宿線沿道に住んでいるが、当時の4号線上り渋滞というのは、それはそれは凄まじいものだった。幡ヶ谷入り口から都心環状線までの約8キロに、だいたい1時間弱かかった。つまり平均時速約10キロ。それが「首都高速駐車場」と言われた時代の現実だった。

刻は進めど車は微動だにしない時代があったのだよ……(写真/PIXTA)

「そんなに混んでるなら下道を走れば?」

そう思われる方もいらっしゃるだろうが、当時は下道はもっと時間がかかったのだ。首都高で1時間なら下道だと1時間半。首都高の大渋滞にうんざりして、よく下道も走ったが、そのたびに強烈な敗北感に打ちのめされた。私が平成13年に『首都高はなぜ渋滞するのか!?』という本を出したのは、その頃の苦い記憶がベースになっている。

それが、今はどうか。幡ヶ谷入口には、霞が関までの予想所要時間が表示されているが、だいたい「10分」となっている。8キロに10分なら平均速度は時速48キロだが、実際にはもっと速かったりする! もう電車なんてまどろっこしくて乗ってられるか! というほど速い。

ただ、都心部は駐車場がバカ高いので、行き先にタダで止められる駐車場がない場合は、仕方なく電車に乗る。首都高なら10分なのに! と思うと悔しい。まあ首都高の前後の下道に多少時間がかかるので、なんだかんだで25分くらいはかかるが、それでも電車利用の半分で行ける。こんなハッピーなことがあるだろうか?

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WRITER
清水 草一
清水 草一
1962年東京生まれ。慶応義塾大学卒業後、編集者を経てフリーライター。代表作『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高はなぜ渋滞するのか!?』『浜崎橋はなぜ渋滞するのか?』などの著作で首都高研究家・交通ジャーナリストとしても活動中。『週刊SPA!』など連載多数。日本文芸家協会会員。
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