首都高研究家・清水草一の「高速道路」道!【09】この道はまるで滑走路

貧弱な道路網だったあの日には帰りたくない
東名高速の全線開通から今年で50年。その時私は7歳で、まだ道路よりジェット機やロケットのほうが好きだったので、記憶には残っておりませんが、私の手元にはその前年、1968年版の道路地図がある。
表紙には、カッコよくカーブした片側5車線(そんなもん、今でも日本にはない)の道路に、ズラリと高級車が並んだイラストが描かれている。書名は『ミリオン・デラックス 詳細 全日本道路地図帖』(東京地図出版株式会社刊)。もう見るからにレトロで、それだけで目頭が熱くなる。
これは、古本屋を漁ったわけではなく、父親から受け継いだというか、亡くなった父の本棚にあったものを形見分けで勝手にもらってきたものだ。これが父の書斎にあった道路地図の中で一番古かったので、地図マニア兼道路交通ジャーナリストである息子の私が有効活用させていただこう! と決めたのです。
その道路地図を開くと、高速道路マニアとして、そりゃあもう涙が止まらない。
この時点での日本の高速道路網はというと、名神は全線開通しているが、東名は一部のみ。全線開通がこの翌年なので当たり前ですが。
で、開通済みの東名をたどってみると、始点は現在同様用賀の東京インターである。ただし首都高とはまだ接続しておらず(71年に実現)、環八で終わっている。
ちなみにこの時点で、首都高はどれだけできているかというと、都心環状線を起点に、1号羽田線が羽田まで、2号目黒線が戸越まで(全線)、3号渋谷線が渋谷まで、4号新宿線が初台まで、5号池袋線が西神田まで、1号上野線および6号線7号線9号線10号線11号線そして湾岸線は影も形もない。
ところで8号線はドコ? というのは首都高のトリビアですが、京橋JCTから東京高速道路(一般にはKK線と表記)との接続地点までのわずか100mです。この当時から存在していたけれど、あまりにも短すぎて利用者を混乱させるということで、当時も現在も案内はされていない。
68年当時の東名に話を戻そう。用賀の東京インターで始まった東名は、厚木でいったん終点となっている。そこから先は、富士-静岡間と岡崎-小牧間が完成しているだけ。こんなんで東京-名古屋間をクルマで移動するなんて狂気の沙汰だったろう。当時の日本は、旅客も貨物も長距離は鉄道と相場が決まっていた。
一方、第三京浜と横浜新道は完成している。横浜新道は、ワンマン宰相・吉田 茂が大磯の私邸に帰る際、戸塚大踏切(国道1号線)の渋滞にしびれを切らせて造らせたという伝説があるが、そこをバイバスする区間(旧戸塚道路)の完成は1955年。59年には米軍との協定により、横浜新道(戸塚道路も編入)が開通している。第三京浜の完成も65年と古い。つまり、戦後まず手が付けられた自動車専用道路の建設は、東京と横須賀や厚木を結ぶための国道1号線のバイバスだった。
なにしろ日本は、道路建設において決定的に遅れていた。日本政府が東名・名神の建設調査のために招いた世界銀行の調査団による『ワトキンス・レポート』(1956年)は、このように報告している。
「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」
心に沁みる一文じゃないですか。そのワトキンス・レポートの13年後、名神に続いて東名が全線開通したわけです。関係者の皆さんは、さぞや感無量だったことでしょう。
この1968年の道路地図には、父の書き込みなどもあり、私にとっては宝物だ。ただしあまりにも道路網が貧弱すぎて、眺めていても楽しくない。本当に「日本の道路は貧しかったなぁ」と思うだけで終わってしまう。

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