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清水草一の「高速道路」道!【16】1964年から2020年へ。オリンピックイヤーの首都高に涙

清水草一の「高速道路」道!【16】1964年から2020年へ。オリンピックイヤーの首都高に涙

1964年東京五輪と首都高がもたらしたもの

昨年NHKで、『東京ブラックホールⅡ』という番組が放送された。1964年の東京にタイムスリップするという内容だったが、そこで取り上げられた、東京オリンピック開催4か月前の世論調査の結果に軽い衝撃を受けた。

それによれば、「今年一番関心があることは」という問いに対して、東京オリンピックと答えた人はわずか2.2%。逆に「オリンピックに金をかけるくらいなら、他にすべきことがあるはずだ」という意見には、58.9%が賛成していたという。

現在のわれわれは、高度成長期を夢のあった時代として懐かしむ風潮が強い。しかし当時の日本人は、決して高度成長に熱狂していたわけではなく、オリンピックに対しても白けていたようだ。

ただ、実際にオリンピックが始まると、折しも家庭に普及し始めていたテレビが国民的熱狂を盛り上げて、結局日本人はオリンピックに夢中になった。

オリンピックイヤーである今年、同じ世論調査を行ったらどうだろう。

オリンピックを楽しみにしている人は、56年前よりかなり多いだろうし、逆に開催に対して批判的な意見は、ぐっと少ないのではないだろうか。

なぜなら、56年前の東京オリンピックは、間違いなく成功だったからだ。われわれ日本人にとって東京オリンピックは、史上最大級の成功体験と言ってもいい。もちろんその裏には、この番組が描いたようなさまざまな矛盾もあったが、それでも全体としては大成功だったし、逆にオリンピックがなかったら、その後の、そして現在の東京はいったいどうなっていたのかと思わざるをえない。

 

東京オリンピックが東京に残した最大の遺産は、首都高速道路である。

首都高の構想は1953年に誕生し、紆余曲折の末、1957年、東京都建設局都市計画部長だった山田正男氏によって、現在の元となる計画が立案された。2年間内容を詰めた後、1959年に建設が正式に決定。その直前に東京オリンピックの開催が決定し、急遽、羽田空港から都心を経て代々木の選手村および初台までの約30キロを、オリンピックまでに完成させることになった。

残された期間はわずか5年。そこから恐るべき突貫工事が始まる。

いきなり突貫工事を始めることができたのは、ルートの約8割が公有地を通過しており、用地買収が極力抑えられたからだ。これは別にオリンピックに合わせたものではなく、内務官僚・山田正男の経験則が生み出した天才的な現実直視案だった。そのため、羽田から都心部にかけての首都高は、川床や海上、そして道路上を多く走っている。日本橋上空を首都高が通過しているのもそのためだ。

この案でなかったら、たった5年でゼロから首都高を30キロも完成させるなど、絶対に不可能だった。

オリンピック後も首都高の建設は進み、一時は都心部の交通渋滞はほとんど解消した。もちろん首都高自体もスイスイだった。1965年のデータによれば、首都高の平均速度は時速55キロとなっている。

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WRITER
清水 草一
清水 草一
1962年東京生まれ。慶応義塾大学卒業後、編集者を経てフリーライター。代表作『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高はなぜ渋滞するのか!?』『浜崎橋はなぜ渋滞するのか?』などの著作で首都高研究家・交通ジャーナリストとしても活動中。『週刊SPA!』など連載多数。日本文芸家協会会員。
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