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ワザ・モノ

100年前に起った建築イノベーター「分離派建築会」展に向って発て!

100年前に起った建築イノベーター「分離派建築会」展に向って発て!

キャラが立っている

分離派建築会の初期メンバーは矢田茂、山田守、石本喜久治、森田慶一、堀口捨己、瀧澤眞弓。のちに大内秀一郎や蔵田周忠、山口文象が加わる。

分離派それぞれのキャラクターが個性的なのは、会場冒頭の説明でも分かるといえば分かる。しかし。「人はなぜ日本武道館を目指すのか」でおなじみ、われらがY田Y子さんによる人物紹介マンガによって、格段に感情移入しやすくなるのだ。

Y田Y子『マンガで見る!分離派建築会実録エピソード』より、Y田さんが描く分離派時代の守おじいちゃま。Y田さんには『まんが 人物日本の建築史』シリーズ描いてほしい。それを子供に読ませれば、建築家めざす人は増えると思うの(※画像をクリックするとサイトへ移動します)

というわけで、「分離派建築会100年展」Webサイトに載っている漫画による予習はマスト。欲を言えば京都で開催される際には展示内容に入れ込んでほしいと思う次第だ。

前時代の様式を断て

画一的なビルや住宅を見るとなんだか味気ないなと思う反面、ものすごく斬新で独創的だけど機能性やメンテナンスがアレそうな感じの建築を見ると、「あのう、建築は建築家の作品というだけではないと思うんですが」と申し上げたくなってしまうことありませんか。一市民のわがままな意見で申し訳ないと思いつつ。

とにもかくにも、美しさと機能のバランスは難しい話である。そんな「建築は機能か?芸術か?」という問いは明治時代からあったそうな。

1914年(『鬼滅の刃』の時代ですね)、当時の建築学会会長・辰野金吾は美術偏重の傾向にクギを刺した。辰野に対立を煽る意図はなかったのだけれど、大ボスのひとことで実用VS芸術の対立が激化していったという。これもいつの時代もどこの世界でもある出来事ですね。

辰野金吾といえば東京駅丸の内駅舎。そういえば辰野は1919年に新型コロナウイルスならぬスペイン風邪で亡くなったのだった

このあたりの断片的な戦前~戦後の建築家や建築の知識が、「あの建築はこの流れの中にあるということかァァ! キュピイィン!」的につながっていく展示は心地よかった。ビギナーに対しても解説が分かりやすいという証左である。

その例として挙げたいのが、個人的なことで恐縮ながら、中の人が数か月前にたまたま見にいった旧豊多摩監獄(旧中野刑務所)正門。大正期の建物なんだーと見た時には認識したけれど、展示にこれが出てくると面食らった。なんでも、設計者である後藤慶二は実用と芸術の統合を図ろうとした分離派前夜のパイオニア的存在だったらしい。なるほど。

後藤慶二もスペイン風邪で夭逝。彼が手がけた旧豊多摩監獄正門(1915年竣工)は現在閉鎖中だが中野区により保存されることが決定

分離派建築会がブンリしたかったのは、大先輩方がつくりあげてきた当時の西洋建築「様式」だった。「建築は芸術やろ!」と主張し、模倣ではなく創作を訴え、日本の近代建築のニューノーマルをつくろうとしたのだ。

分離派のデビューは東京帝国大学の卒業設計。同世代の建築家や学生たちの共感を集めたものの、教員から高評価は得られなかった。いつの世もイノベーターは煙たがられるものである。そうは言っても、みんな後にしっかり企業や役所に勤めて活躍している。だから若いうちは分離派建築会ぐらい尖ってたほうがいいんじゃね……と令和時代の建築学生も勇気づけられるはずだ(でも怪しいオンラインサロンには気を付けて)。

なにより彼らの大学の先輩で「建築は実用品。美とかいらんし」と『建築非芸術論』を展開したはずの野田俊彦が、後年、この分離派メンバーの卒業設計を「分離派運動は何というてもEpoch-makingでした」と評したというエピソードが胸アツだった。なんだ……野田さんけっこうツンデレかよ。でも野田俊彦も38歳という若さで亡くなっていることに衝撃。

山田守制作の卒業設計「国際労働協会 正面図」(1920年、提供/東京大学大学院工学系研究科建築学専攻) ※展示期間は11月10日まで

 
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「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部の中の人。ひとりで取材したり記事を書いたり写真を撮ったりしております。ツイッターは@KensetsuTAKUMI、フェイスブックは@kensetsutakumi2018。
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