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【戦後インフラ整備70年物語】日本のまちの発展に寄与した東海道新幹線建設秘話

【戦後インフラ整備70年物語】日本のまちの発展に寄与した東海道新幹線建設秘話

連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第11回は、「日本の大動脈として経済の発展に貢献した社会基盤・東海道新幹線」。オリンピック前の世界に類を見ない大工事は、いかにおこなわれたか? 東海道新幹線に関わった建設レジェンドたちが振り返った。

取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所

 

東海道新幹線建設に至るまで

原 恒雄氏(元JR東海副社長、前人事院総裁)、須田 寬氏(JR東海 相談役)、藤井 浩氏 (元日本鉄道建設公団 理事)

まず東海道新幹線の歴史について語りはじめたのは原恒雄氏(元JR東海副社長、前人事院総裁)。東海道新幹線が開業したのは1964(昭和39)年10月のことだが、開業前には「鉄道斜陽論」があったと原氏は言う。

「斜陽論が唱えられた時代に、逼迫していた東海道本線の輸送力増強について、新たな在来線をつくる方法が常識的だったが、国鉄総裁・十河信二は標準軌かつ別線による、新たな高速鉄道をつくることを決め、強力に推進した。結果として東海道新幹線の成功は、その後の国内、あるいは海外の鉄道の高速化に非常に大きな影響を及ぼした」

開業後の23年間、国鉄の財政は厳しく、新幹線がさらに高速化するには至らなかった。輸送力の強化も限られたものだった。そんな中、国鉄が民営・分割され、東海道新幹線はJR東海に引き継がれる。その後、技術開発、抜本的な強化策を講じた結果、東海道新幹線は日本の大動脈として進化を遂げ、現在では日本経済にとってなくてはならない存在になったと話した。

日本の鉄道は1872(明治5年)、イギリスの指導を受けて新橋~横浜間に開通した。この「イギリス主導」がのちのちネックになる。というのも当時、イギリスが海外領土に使っていたレールの幅1,067mmのいわゆる「狭軌」の鉄道で出発したからだった。これは現在でもJR在来線で使われているほどで、広軌(1,435mm)に改築しようとしたものの、経費面から、結局断念せざるをえなかった。昭和になって走った特急つばめ号(東京~神戸間)も狭軌の枠内で挑戦したものの、最高時速100kmの壁を超えられなかった。

昭和10年代になると大陸諸国への輸送も増加してきたため、さらに東海道・山陽線の輸送力は逼迫する。昭和14年、国鉄は幹線調査委員会を設置。学識経験者の意見を聞きつつ「東海道・山陽道の輸送力をどうするか」という検討をした結果、「弾丸列車計画」が閣議決定され、着工する。

しかし太平洋戦争に突入し、昭和18年以降の工事は中断せざるを得なかった。しかし、日本坂トンネル、新東山トンネル、新丹那トンネルは一部着工していたため、それが戦後工事の遺産として役立つこととなったのである。

戦後、経済復興していく日本。しかし道路整備が遅れていたため、鉄道にかかるウエイトは非常に高かった。全国のかなりの貨物が東海道線に集中した。当然、戦前と同じような輸送力の逼迫が起きる。こうして新幹線についての議論がふたたび起きた。

戦前と違うのは、蒸気機関車による牽引ではなく、線路にかかる負担が少なく、高速運転も可能な交流電車にしようとなったこと。仙台と山形を結ぶ仙山線での非電化区間を使った実用実験の結果が活かされた。

珍しいのは、昭和32年の小田急電鉄のSE車を使用してのテストである。SE車は重心が低くて軽量化されており、非常に画期的な車両だった。これを国鉄が借り、函南~三島間で時速145kmをマークしたのだ。こうした様々な実験を重ね、電車による高速化の技術的な基礎を固めていったのである。

昭和31年、国鉄は有識者を集め「東海道線増強調査委員会」を設置、以下の3つの案を俎上に載せた。

1 東海道線は狭軌のまま、横に腹付けをして、複々線にする案

2 狭軌の線路に別線を付けて速度が出せるようにする案

3 広軌の別線をつくり高速線と在来線に分ける案

須田 寛氏(JR東海 相談役)は「当時の国鉄はお金にゆとりがなかったので、速効的な1案と2案が有力だったと聞いている」と話す。わずかな投資で済む案でほぼ決まりそうだったのを覆したのが、十河信二国鉄総裁だ。昭和30年に総裁となった十河氏は南満州鉄道株式会社理事の経験から「これからの鉄道は広軌でなければダメなんだ。高速運転あるいは大量の輸送には絶対に広軌だ」と強く主張。それでもまだ、鉄道斜陽論が多数派で、慎重に検討すべきというのが当時の世論だった。

そこへ追い風が吹く。陸軍・海軍解体後、そこに所属していた超一流の技術者たちが鉄道技術研究所(現在のJR総研)に加わった。彼らの技術力は高速鉄道開発に非常に大きな貢献をしたのだ。研究所は東京・銀座のヤマハホールで講演会を開き、そこで「広軌における時速250kmの高速運転は可能で、東京~大阪間なら3時間運転も可能だ」という見解を発表。これが非常に大きな反響を呼び、新幹線をつくるための世論形成を後押ししたのである。

昭和34年4月20日、東海道新幹線の新丹那トンネルで起工式がおこなわれた。……そうはいっても新丹那トンネルは戦前に数百m、掘り進んで止まっていたので、すでに完成したトンネル入口の前で起工式をおこなうという不思議な光景がそこにあった。

その後、早急に完成させた鴨宮~綾瀬間のモデル線区間でさまざまな実験がおこなわれた。車内を気密構造化しなければ、トンネルに入ったときに乗客の耳に痛みが走り、車内の天井が波打つというような異常現象も分かってきた。

実はこの段階で、世界銀行から日本円にして約300億円を借り入れている。「国が新幹線工事を保証することが内外に示されたという意味において、世銀の借款は非常に大きな意味があった」と須田氏は話すものの、世銀は貨物輸送を追加するよう強く主張。実際に工事の着工まで進んだが、工事が遅れているあいだに貨物をめぐる経済環境の変化等により実現せずに終わったのだとか。

さらなる問題は、用地買収だ。東京オリンピック等によって用地代や工事費が高騰。「結局1,948億円どころではなく倍の工費がかかった」と須田氏。「お金がなくなって駅プラットホームの屋根が6両分しかなく、傘をさして新幹線を待つような駅さえあった」というほどだ。

最後は名称だ。「東海道線の複々線化」で認可を受けていたため、あくまでも東海道線という名前はそのまま付けなければならない。そこで正式名称は「東海道本線(新幹線)」、営業上の線名は「東海道新幹線」、英語もそのままの「Tokaido Shinkansen」で開業したのだった。360両しかない車両を使い、60本/日のダイヤでスタートした。当時の普通車で料金と運賃を合わせて東京・新大阪間約3,000円。当時、航空機が6,000円だったので、その半額だ。「これが当初新幹線をよく利用いただけた大きな理由ではないか」と須田氏は分析する。

この東海道新幹線によって、当然ながら時間短縮の効果が生まれる。当時、国鉄が乗客が在来線に乗るより東海道新幹線を使ったら時間価値がどれだけ短縮されるか計算したところ、当時のお金で年間2,500億円の節減が行われていることが明らかとなった。現代に換算すれば、兆に近い時間節減効果があったということになる。

そして、沿線の新幹線開業後、あきらかに沿線に工場立地等が増えたという。「新幹線が地域の開発に大きく貢献した」と須田氏。「東海道新幹線の駅を中心にして、経済集積、社会的な集積が行われた。交通機関同士でも新幹線が中核となり、東海道の輸送システム産業の一環としての位置づけが得られたことが、成功の大きな理由。そして、新幹線はまちづくり、国づくりに大きく貢献できた」と語った。

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「建設の匠」編集部
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「建設の匠」編集部の中の人。ひとりで取材したり記事を書いたり写真を撮ったりしております。ツイッターは@KensetsuTAKUMI、フェイスブックは@kensetsutakumi2018。
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