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【戦後インフラ整備70年物語】レジェンドが語る東京・地下鉄丸ノ内線建設の軌跡

【戦後インフラ整備70年物語】レジェンドが語る東京・地下鉄丸ノ内線建設の軌跡

取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所

1954年1月に開業した地下鉄丸ノ内線。池袋から御茶ノ水、東京、霞ヶ関、新宿などの主要駅を経由して荻窪まで結ぶ路線です。新大塚→茗荷谷間における朝のピーク時混雑率は165%(2017年度、国土交通省調べ)と、多くの人が利用する丸ノ内線ですが、その建設は、東京最大のビジネス街である大手町を生み、繁華街である銀座を通るという都市計画と路線の採算を考え抜いた都市インフラ工事でした。技術面では都心初のルーフシールド工法や生コンクリートの大量施工が用いられ、その後のシールド工法の先例となった大プロジェクトでもあったのです。

丸ノ内線で最初に走った営団300形電車。(写真/PIXTA)

連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第2回「戦後の苦難の中で建設され、東京都心の大発展を導いた地下鉄丸ノ内線」が10月に開催されました。今回は事業主体である帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)の大門信之氏と、ケーソン工事を施工した白石基礎工事株式会社(現オリエンタル白石株式会社)の斎藤良太郎氏、ルーフシールド工法を担当した株式会社熊谷組の河内汎友氏が、当時の苦労を振り返りました。

左から大門氏、斎藤氏、河内氏。

都心の輸送力を強化せよ!

丸ノ内線は、関東大震災後の1925年に出された内務省告示第56号の地下鉄5路線の計画中に、すでにその原形がありました。当初は新宿を起点として四谷見附、日比谷、築地などを経由し大塚までを結ぶ計画でしたが、1946年には中野富士見町を起点として四ツ谷、東京、御茶ノ水を経由し、池袋、向原までを結ぶ計画へと変更されます。

丸ノ内線の建設が特に急がれたのは、郊外から都心に通勤する人が増え、山手線の池袋から大塚間では混雑率300%となっていたからです。郊外からの私鉄・国鉄のターミナル駅である池袋と新宿駅、国鉄中央線・山手線の混雑を緩和し、都心への輸送力を強化する新線建設が急務となっていたのです。

1951年に新線新設に着手となったものの、当時は資金や建設資材の調達に苦労したそうです。資金はアメリカの対日援助見返資金や、資産再評価法の施行により営団の資本金が増加し、交通債券発行限度が拡大したことで集められましたが、一方でインフレにより鋼材や生コンクリートが高騰し始めた時期でした。そこで、営団が購入費を抑えながらも品質確保・安定供給を続けるために資材を直接購入し、建設業者に貸与または支給する仕組みをつくりました。これによって、工事の進捗状況と資材の価格変動を考慮しながら、必要量を調達することができるようになったのです。

地下鉄で新しい東京のまちをつくる

新宿から池袋を結ぶ「U字型」の路線になることは決定したものの、今度は「どこを経由するのか」という課題が持ち上がります。混雑緩和・都心への輸送力強化を考えると国鉄駅との接続は必須です。そこで御茶ノ水、神田、東京、四ツ谷駅での接続が検討されましたが、神田駅周辺は道路の幅員が狭く、すでに銀座線があるため道路下への敷設が困難とされ、淡路町を経由することに決まりました。

さらに淡路町と東京駅のあいだには、大手町駅が建設されました。いまでは想像もつきませんが、当時の大手町は大きなビルも鉄道駅もなく、やや不便な土地だったそうです。そこに丸ノ内線の駅が開業し、さらにその後、営団では新しい路線はできるだけ大手町を通るように計画し、半蔵門線と千代田線、東西線が通ることになりました。こうして大手町は、一大ビジネスセンターとして大きく成長することになりました。

東京から霞ヶ関間のルートは、繁華街である数寄屋橋付近を通る採算性の高いルートが計画されました。そのためには国鉄の高架を2度も横断しなければならない難工事になりましたが、その後、日比谷線の開業もあって銀座はますます発展していきます。

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「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部
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