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【戦後インフラ整備70年物語】世界の港湾開発のモデルとなった鹿島港開発の理念とは?

【戦後インフラ整備70年物語】世界の港湾開発のモデルとなった鹿島港開発の理念とは?

茨城県南東部の鹿島砂丘は、鹿嶋市から神栖市に至る巨大な砂丘だ。太平洋に面する鹿島灘は、年間を通して荒波が押し寄せ、大量の砂が堆積する。利根川や霞ヶ浦などの自然的障害で交通の不便さを抱え、かつ巻き上がる砂のせいで豊かな農耕地とは言えなかった。

連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第8回テーマは、そんな“不毛の大地”と言われた鹿島地区の港湾開発プロジェクトに迫る。

取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所

新知事の情熱が鹿島を変えた

まず登壇したのは、平成の改元時に国土交通省から茨城県の港湾課に出向していたという鬼頭平三氏(みなと総合研究財団 顧問)。鹿島開発前のこの地区の人口は現在の約3分の1で、製造品出荷額にいたっては約千分の一程度。地元で義務教育を修了した子供たちの多くは高校へも行けず、だからといって地元の就職口も見つからない貧困地域だった。

このような厳しい経済状況を打開しようと鹿島開発に情熱を燃やしたのが、岩上二郎氏(元茨城県知事)だ。1959(昭和34)年の初当選以来、4期16年にわたって知事を務め、「政治生命をかけて鹿島の大事業を成し遂げた最大の功労者と言っても過言ではない」と鬼頭氏は語る。

元国土交通省港湾局長、みなと総合研究財団顧問の鬼頭 平三 氏

岩上知事は鹿島開発に際し「農工両全」という理念を謳った。地域固有の農業を維持しながら、新たに導入する工業との共存共栄を図るという考え方だ。そして「人間性の勝利」もまた、岩上知事の口癖だったとか。「鹿島港の整備を始めとする鹿島開発は、この地域を貧困から解放するという目的のためのあくまでもひとつの手段である」というスタンスが、これらの言葉に込められているのだ。

鹿島開発の構想当時、「もはや戦後ではない」というフレーズに代表されるがごとく、日本経済は復興から成長へと歩みを進めていた。1960(昭和35)年には国民所得倍増計画が策定され、太平洋ベルト地帯構想が打ち出される。太平洋ベルト地帯への工業開発重点化は、過密・過疎の問題などをはじめ、さまざまな弊害を起こしつつあったことから、1962(昭和37)年には、地域間の均衡ある発展を目標とした「全国総合開発計画」が策定されたのだった。

この全国総合開発計画が掲げる「工業整備特別地域」のひとつに指定された鹿島地区。東京湾岸の臨海工業地帯がすでに飽和状態になりつつあったことから、直線距離にして80kmという東京からの“近さ”が、鹿島が選定された条件の大きな要因だったそうだ。

しかし、茨城県が描いた開発構想の素案にあった5,000haという壮大な構想に対し、県内外でもその実現性を疑問視する声が多かったという。なにより「太平洋の荒波をまともに受ける直線的な砂浜海岸に港をつくるのはきわめて困難」という従来の常識があった。それを覆し、港湾の整備に大きく舵を切ったきっかけとなる出来事を鬼頭氏は紹介した。

当時、運輸省の第二港湾建設局の局長・坂本氏の現地視察の際の岩上知事のやりとりである。坂本局長は当時、すでに砂浜海岸を掘り込んで整備が進められていた北海道の苫小牧港、静岡県の田子の浦港を引き合いに出し、波や漂砂の問題を慎重に調査をする必要があるとしながらも、前向きな検討を約束したという。

この坂本局長の約束を受けて、翌年2月には第二港湾建設局の手で鹿島人工港試案が作成された。これが「鹿島臨海工業地帯造成計画」、いわゆるマスタープランに反映されたことで、一気に実現に向かって動きはじめた。

もうひとつのターニングポイントが、1962(昭和37年)末、次年度の国家予算の大蔵省原案に鹿島港着工予算が計上されたこと。国の本気度が明らかになったことで、住友金属工業や三井不動産が敷地の分譲予約を決断するなど、半信半疑だった民間企業も動き出した。「構想段階から県、国、民間が緊密な連携下で進められたことが、鹿島開発プロジェクトの大きな特徴」と鬼頭氏はこのストーリーの発端部分をまとめた。

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「建設の匠」編集部
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