【戦後インフラ整備70年物語】日本初の高速道路・名神高速道路は建築家も参画した「意識高い道路」だった

いまでは日本中にはりめぐらされている高速道路だが、日本初の高速道路・名神高速道路の建設が決定した時、日本にはノウハウどころか、その資金すらなかった。それからいかにして資金を集め、設計・施工を行い、維持管理や料金収受の仕組みをつくりあげたか。先人の苦労は想像するに余りある。
連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第9回テーマは、名神高速道路をつくりあげたレジェンドたちの物語である。
取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所
名神高速計画はかくして生まれた
名神高速道路は名古屋市の北、愛知県小牧市を起点とし、鈴鹿山脈北側を迂回して、滋賀県、京都府、大阪府を通過し、兵庫県西宮市に至る全長約190kmの高速道路だ。1958年10月に試験工事に着手し、初開通は1963年7月の栗東ー尼崎間、最後の開通が1965年6月、起点側の小牧ー一宮間である。
そもそもなぜ小牧ー西宮間なのか。この計画の経緯について語るのは、終戦翌年に戦災復興院に入所し、建設省を経て、日本道路公団で理事として高速道路建設計画に携わってきた大塚勝美氏である。

大塚勝美氏(元日本道路公団理事)
1951年、当時の吉田 茂首相と高崎達之助経済企画庁長官は、サンフランシスコ平和条約締結のため渡米した際、日本にはない新しいカタチの道路を目の当たりにした。「日本にこんな道路をつくってくれないか」と言う吉田首相に高崎長官が「私がつくります」と返事をしたのが、すべてのはじまりだった。
高崎長官の秘書である川本 稔氏から、「高速道路をやることになったので、いろいろ教えてくれ」という電話を受けて、建設省道路局の道路企画課に在籍していた大塚氏は、道路協会の会議室を借り、1週間ほどいろいろと議論をしたのだとか。
「川本 稔さんは、アメリカ・シンシナティ大学のファイ・ベータ・カッパ(成績優秀な大学生の友愛会)の一員で、ワトキンス調査団が日本で調査する時、通訳および連絡係長という形で全体の指揮を執った優秀な人物。当時、日本は非常に財政が逼迫していて、『外資を入れたい』という話が政府の中で非常に強かった。その対象案件として新幹線と、この高速道路が挙がっていた。外資を入れるとは、すなわち世界銀行から融資を受けること。それを最終的な目的として、仕事がはじまった」

Ⓒ西日本高速道路
大塚氏は、米軍から20万分の1のリリーフマップを入手し、東名・名神高速道路の線を書き入れた。それは川本氏らがアメリカの世界銀行でプレゼンをするためだ。アメリカに着くと、吉田首相経由で強力な弁護士事務所が紹介され、ニューヨーク州知事を紹介された。
川本氏はニューヨーク州知事と相談し、世界銀行と交渉をしたが、回答は「日本には融資をしない」。しかしニューヨーク州知事が「調査団を日本へ送りなさい」と知恵を貸してくれた。そこで指名されたのが交通経済学者のラルフ・J・ワトキンスだ。川本氏はワシントンまで行き、ワトキンスと相談の結果、技術者ひとり、交通経済学者・経済学者で構成された「ワトキンス調査団」を結成した。
1956年、ワトキンス調査団は日本で3か月の調査を行った。その報告書は「世界で道路のプライオリティを見るには一番いい教科書だ」と絶賛されたそうだが、「日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国でこれほど完全に道路網を無視した国は日本のほかにはない。日本の道路予算は現在の3倍にすべきである。最終的には東京まで建設を予定している高速道路の一部として名神高速道路は非常に重要な計画だから、やることが必要である」と書かれていた。この調査結果によって世界銀行のGOサインが出され、日本の道路予算は3倍に膨れ上がり、名神高速道路建設計画ははじまった――御年97歳にも関わらず、大塚氏は終始はつらつとした口調で語った。

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