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【戦後インフラ整備70年物語】平成30年間をかけて進められた小田急連続立体交差&複々線化プロジェクト

【戦後インフラ整備70年物語】平成30年間をかけて進められた小田急連続立体交差&複々線化プロジェクト

連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第10回は、「小田急線の連続立体交差・複々線化事業」だ。この大工事は、街づくりにも密接に関わっている。過密な都市部で、どのように住民に対する説明を行い、いかに工事を進めたのだろうか。キーパーソンたちが語る。

取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所

 

輸送力増強の背景とは?

最初に登壇したのは、小田急電鉄で社長・会長をつとめた大須賀氏である。

大須賀賴彦氏(小田急電鉄特別顧問)

1日あたり約210万人と日本最大の乗降客数を誇る小田急線は、新宿を起点として3路線・120.5㎞で成り立っている。

1923年創業と関東の大手私鉄としてはもっとも遅い時期の開業ながら、1927年に新宿~小田原間の82.5㎞をわずか1年半の工期で開業にこぎつけた。またその2年後には江ノ島線を開業した。しかし経営基盤の弱さや昭和恐慌に見舞われ、開業直後は厳しい経営が続く。戦時中の各私鉄その統合ののち、戦後に新成小田急電鉄として歩みはじめた。

戦後の高度成長期に伴い、輸送人員は急激な増加を続けていく。昭和のあいだに沿線人口は2.3倍、輸送人員は5.3倍となったのだ。そこで小田急は輸送力増強に取り組むこととした。その例として、地上・地下の2層構造となった新宿駅のほか、大型車両2600形の導入などが挙げられる。しかし、最混雑区間である下北沢到着時の混雑率は200%を超える状態が続いた。

一方、国の鉄道の整備計画は1962年に策定された。その中で、のちの9号線、現在の千代田線の原型にあたる路線が答申される。運輸省、建設省、東京都と協議を重ねた結果、小田急線の接続駅を喜多見から代々木上原に変更、1964年に「代々木上原~喜多見間の複々線化」が都市高速鉄道第9号線として都市計画決定された。

こうして国の鉄道整備計画が進められる中で、「小田急でも将来の鉄道輸送のあり方について、1960年ごろから検討を進めてはいたものの、近郊区間の複々線化について、どう取り組むべきか議論ばかりが続き、具体的な方策も手段もまったく見えない状況が続いていた」と大須賀氏。

それでも1968年に「輸送体質の改善とその影響について」という社内プロジェクトを発足。チームは関係部門の課長・係長クラス11名の兼務メンバー+専任メンバー3名からなる大所帯で、作業場も本社近くに会議室を借り切り、2年以上かけて研究・検討を積み重ね、「代々木上原~喜多見間を昭和50年代なかばまでには線増すべきである」と答申したのだ。

しかしながら「このプロジェクトの名称に『複々線』『線増』という具体的な言葉を使わずに、『輸送体質の改善』としているところに当時の社の姿勢が如実に表れている」と大須賀氏。「複々線化に本当に取り組めるのか。正直、会社は自信も勇気も、勝算もなかった。あったのは『いつかはやらなければならない』という義務感だけだった」と明かした。

当時の日本は高度成長のおかげで輸送人員は増え、収入も増える一方。しかし物価上昇により経費はそれ以上に増加していった。鉄道会社の事業収支は運賃改定の翌年には赤字となり、また次の運賃改定の申請準備をしなければならないという状態だった。

しかし運賃は国の公共料金抑制策で厳しく査定され、徹底的に低く抑えられる。「輸送力増強やサービス向上の施策は必要最小限に抑えざるを得ず、巨額の投資を伴う複々線化などのビッグプロジェクトには正直、手も足も出せない状況だった」と述べた。

そうしているあいだにも地下鉄整備は急ピッチで進められていた。1966年に着工していた帝都高速度交通営団9号線(のちの千代田線)の乗り入れに伴い、小田急も代々木上原~東北沢間の改良工事を鉄建公団施工で着手。これが複々線化のスタートである。

©小田急電鉄

大須賀氏は「一方で、線増計画には反対派からの強い逆風があった」と話す。地下化を主張する高架化反対の協議会が立ち上がったり、世田谷区議会が小田急線の地下化を決議するなど、計画はいきなり暗礁に乗り上げる。

しかし高架化を検討していた狛江市に動きがあった。「小田急線の踏切遮断時間が長く、市民生活に支障をきたしている」と考えた市は市民アンケートを行い、高架による連続立体化を進めることとしたのだ。「市は反対派の説得に全力であたり、1985年の都市計画決定にこぎつけた。これは大きな前進だった」と大須賀氏は振り返る。

具体的な工事区間や工法は決まらぬまま「線増は待ったなし」という認識のもとに1984年、社内に「複々線事業部」を立ち上げた……のだが、幸運なことにこの時期、ついに運輸省が動いた。大都市圏での輸送力増強工事を促進させるための支援制度創設の検討がはじまったのだ。

この1985年の「特定都市鉄道整備促進特別措置法(特々法)」、事業完成前に利用者から運賃を上乗せして受け取れるという、大規模投資実現にはきわめて魅力的な制度。「法制化に向けてわれわれも資料作成などの事務作業に駆り出され、休みなしの毎日だったことを覚えている」と感慨深げに話した。これによって472億6,500万円という資金を確保し、小田急はようやく事業に着手できる環境になったのだ。

1989年7月、喜多見~和泉多摩川間の工事に着手。これが小田急線近郊区間10.4㎞の連続立体交差複々線化の30年におよぶ工事のはじまりである。ちなみに全計画の東北沢から和泉多摩川までのうち、同区間は都心から遠い地区にあたる。

ある専門家からはこう言われたそうだ。「『こういう工事は手前から順番にやるもの。そうすれば途中で工事がストップしてもできた区間を使えるが、小田急の工事は、下手をすると無駄な工事になりかねない。鉄道を知らない人間のやることだ』」と……。

大須賀氏は「たしかに言われるとおり。そのとき実はまだ手前の下北沢や経堂、成城の区間は線形も決まらず、用地の確保もできていない状況での見切り発車の工事開始だった」と明かす。しかし「社内は社長以下、全員が『何年かけても、10.4㎞の複々線化はやる』という不退転の決意で臨んだので、事業を推進することができた」と胸を張った。

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「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部
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