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川田テクノロジーズ社長・川田忠裕氏は「人間と技術」の可能性を信じ未来を拓く【前編】

川田テクノロジーズ社長・川田忠裕氏は「人間と技術」の可能性を信じ未来を拓く【前編】

「専門性」はたしかに大切である。そこに異論を挟む余地はない。「専門性に裏付けされた技術」もきわめて重要だ。

しかしみずからの専門性にこだわるあまり、発想や思考が凝り固まってしまうことはないだろうか。専門技術を守り固めることで、別の可能性の芽を摘んでしまってはいないだろうか。

一方で専門外だからこそ、違和感に気づくことがある。フラットな視点が、専門性や技術の新たな力を引き出すこともある。技術者集団・川田テクノロジーズの実例が、それを再認識させてくれた。

写真/髙橋 学(アニマート)

 

橋梁工事会社の社長が、⼟⽊の専門家ではない⁉

川⽥テクノロジーズ社⻑・川⽥忠裕⽒は、建設系企業のリーダーとしては異⾊の経歴である。なにしろ、橋梁⼯事の名⾨として知られる川⽥⼯業の創業家出⾝ながら、橋梁はおろか、川田工業の社長就任までは⼟⽊分野に関わったことがなかったのだから……。

「橋梁のことに、まったく関わっていませんでしたからね。各部門⻑のみなさんに『橋梁をまったく分からない⼈間が社⻑になりました。みなさん、気を引き締めて頑張ってください』とあいさつを……(笑)。そんなところからのスタートでした」

川⽥⽒が社⻑になった経緯は後で触れるとして、まずは川⽥⼯業という会社について教えていただこう。

「当社のはじまりは私の曽祖⽗、川⽥忠太郎から。栃⽊の⼑鍛冶の家に⽣まれ、⼦供の頃から⼑鍛冶の技術を習ったんですが、時代は明治で⼑などいらないので、⼑鍛冶業はすぐに頓挫しました。ただ、栃⽊には⾜尾銅⼭などがあって、そこで⼑鍛冶の技術を⽣かして折れてしまったドリルやシャフトを鍛え直し、それがのちの川田鐵工所につながっていった」。そう、刀鍛冶の技術が⾜尾銅⼭を通じて⽇本の産業⾰命を⽀えていたとも言える。

1922年に創業した後、業態と社名を変えていた川⽥鐵⼯所は、1952年に川⽥⼯業となり、仕事も鉄道⽤バネ製造からモータリゼーションの波に乗って、⾃動⾞道路の橋梁建設⼯事へ変わっていった。

「高度経済成長期の後も本州四国連絡橋⼯事などに関わって⾮常に忙しく、業績も絶好調でした。でも当時の川⽥⼯業の社⻑だった私の⽗が、『この⽴派な橋の⼯事にいま携わっていても、⼯事が終わった後が⼼配だ』と。うちの会社はずっと⼼配性なので……その⼼配は結果として正しかったと思っています」

多⾓化の⼀環として、川⽥⼯業は航空事業に打って出る。「いずれは航空機メーカーに」という志を抱いて準備室が設⽴された。そして、若き川⽥⽒にも⽩⽻の⽮が⽴つ。

「私は⾼校から⼤学までずっとアメリカにいたんです。もともとは物理が好きでしたが、⽗に『いずれ川⽥⼯業は航空機メーカーになるのだから、航空⼯学を勉強しろ』と⾔われ、それでサン・ディエゴ州⽴⼤学⼤学院の航空宇宙⼯学専攻へ進みました」

1987年に新設された航空事業部は、アメリカ製ヘリコプターの輸⼊販売や整備など、さまざまな試みを⾏っていた。さらに関連事業ではパイロット養成学校を設立、運営も行っていた。ところで、川⽥⽒の⽗・川⽥忠樹⽒はなぜ「橋梁から航空機へ」という⾶躍的な発想をしたのだろう?

川⽥⽒が解説してくれた。「橋梁や道路は、AからBへ移動する交通⼿段の⼀部ですよね。でも当時は特によく渋滞してノロノロ運転も多かった。そもそもA→Bの移動が⽬的なのだから、別に橋でなくても構わない。ならば空を⾶んでいけばいいじゃないか! と。『⾃分たちの持っている技術で、いま必要とされているものにどう対応していくのか?』を常に考えていましたね」

「なにが⽬的なのか」を突き詰めて考えるのは、川⽥グループに脈々と受け継がれているテーマなのかもしれない。訊けば川⽥⽒の祖⽗もプラントエンジニアとしての⼀⾯を持ち、昭和40年代に産業廃棄物処理プラントや⼤型機械を⾃分で設計していたそう。それも「技術をいかに⽣かし、社会のニーズをどう満たすか」という思想が根底にある。

「当グループの理念は『安⼼で快適な⽣活環境の創造』であって、『橋をつくる』とは書いていないんです。たまに冗談で『川⽥⼯業はしまいには橋梁をやっていないかもしれない』と話すこともあります」と川⽥⽒は語った。

“橋梁建設の川⽥⼯業”という筆者の脳内にあった固定観念は、インタビュー早々にガラガラと崩れていった。

航空事業の挫折と思いがけない新展開

技術を突き詰める川⽥⽒と川⽥⼯業の歩む道が、常に順⾵満帆だったわけではない。ヘリコプターや⾶⾏機の運航事業はいまもグループ内で継続しているが、ヘリコプター開発事業は1996年に凍結されたのだ。

「バブル崩壊後、川⽥⼯業もだんだん業績が悪くなってきた。⽗もこれ以上は無理だと判断して、当時は『フリーズ』という表現で、『また業績が回復したら再開する』と……それからもう23年が経ったんですが(笑)。ともかく、急にストップになったんですよね、私の取り組んでいたことが」

ショックを受けたのは航空事業部の技術開発の責任者だった川⽥⽒。次の収益の柱を担うためわざわざアメリカの⼤学院で学んできたのに、いきなりハシゴを外されてしまったのだから、⼼中察するに余りある。「開発凍結と⾔われた時はもう本当に頭にきて、『こんな会社、もう辞めてやろうか』ぐらいのことを思いました。今となれば⾃分も当時の⽗の⽴場だったら、そうするしかなかったとは思うけれど……」

川⽥⽒のいた航空部⾨には、構造や電気、機械のエンジニア、ヘリコプターの専⾨家など多種多様な⾯々がそろっていた。あらためて⾃分たちにできることを考えた末、たどりついた結論は「我々は技術屋だ、エンジニアなんだ」。

「『⾃分は⼑鍛冶だから⼑しかつくらない』とならず、包丁やナタなどの日用品もつくったひいおじいさんのように、必要とされるように対応していこうと。「『こんなものできない?』と⾔われたら『はい、つくってみます』と、ドライビングゲームや自動⾞の技術⽀援、サテライトコントロールシステムの仕事など、とにかくなんでもかんでもやった。それがいまのロボット開発に繋がっていくんですけれどね。川⽥グループの⾏動指針にある『マーケット志向とグローバリゼーション』は、だれかが困っていることを自分たちの技術を活用して解決してあげたい、という意味なんです」

ちょっとおもしろいなと思ったら、やってみたくなってしまう。好奇⼼を抑えきれないのが技術者集団の気質だ。やがて、彼らの持つ技術⼒が他に転⽤できることが分かってきた。ロボットに関わった者など誰ひとりいなかったのに、ロボットの開発も⾏えるようになったのだから。

しかしそんな川⽥⼯業を、さらなる危機が襲う。

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「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部の中の人。ひとりで取材したり記事を書いたり写真を撮ったりしております。ツイッターは@KensetsuTAKUMI、フェイスブックは@kensetsutakumi2018。
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