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乘京正弘社長は飛島建設を「ダム建設の匠集団」から「社会に開かれたダイバーシティ建設企業」へと跳躍させる【前編】

乘京正弘社長は飛島建設を「ダム建設の匠集団」から「社会に開かれたダイバーシティ建設企業」へと跳躍させる【前編】

インタビュー終了後。乘京正弘(のりきょう・まさひろ)氏は、そばに置かれていた想定問答の用紙をチラッと見て「これ、ほとんど見なかったわ」と言いながらハハハと笑った。同席した広報担当者も筆者に「あれが社長のいつもの感じです」と目配せする。

どんな相手でも本音で話し、想いを率直に伝える。乘京氏のそんなパーソナリティが垣間見えるひとコマだった。さて、そんな彼はゼネコン・飛島建設の社長として、匠のワザの継承のためにどんな舵取りをしているのだろうか?

写真/髙橋 学(アニマート)

ダムのことなんて、なにも知らなかった

「学生時代はたいして勉強もしてなかったんですが、担当教授が『おまえには公務員は似合わないし、大きな会社も似合わん。飛島ぐらいがちょうどええぞ』と。……これ、自分の口で言っているからいいんです(笑)」

大阪で育ち、京都での学生時代はフットボールプレイヤーとして活躍していた乘京氏がなぜ、福井にルーツを持つ飛島建設に入社を? という質問に対しての答えだ。のっけからこんな調子である。

実は彼にこの進路を進めた教授も乘京氏の父も、福井の出身だ。当時の福井において、1883年創設の飛島建設は老舗であり屈指の大企業。当然、まわりの人は大喜びである。「男らしい大きな仕事をやれ」とつねづね言っていた父はなおのこと力強く応援してくれたそうだ。

しかし、当の本人はというと「ゼネコンがどんなことをしているのかもよく知らなかった」。そんな真っ白な状態で赴任した最初の勤務先は、雪で真っ白な寒河江ダム(山形県)の建設現場である。

「駅から30、40分ぐらいクルマで山の中に入っていって、そのときにようやく分かったんです。『これはずいぶん遠いところに来たな……』と(笑)」

現在でも国内最大規模のロックフィルダムである寒河江ダム。当時も建設中のダムとしては日本で十指に入るような規模だった。とにかくたくさんの人が働いており、そこに新入社員の乘京氏が30数人のうちのひとりとして配属された。社員は最盛期には約90人まで増員されたという。

「恥ずかしい話なんだけれど、ダムといえばコンクリートでつくるものだと思っていた。土を積み上げてつくると思っていなかったので、『土で大丈夫なんかいな?』と。本当にド素人もいいところでした。

いろいろな人がものすごく広いエリアで働いている現場で、わたしはとにかくなにも分かりませんから、与えられたことを地道にやっていくだけ。自分の担当する場所でちょっとずつ仕事を覚えるしかない。そこからはじまって、少し余裕ができたら『よそでなにをやっているか、時間があったらちょっと見てこい』と指示を受けて、それで他の工程を見て『ここではこういうことをやっているんやな』と徐々に勉強して」

当時はまだ、全国でダムがどんどん増えている時代だ。飛島建設でも10~20か所近く建設現場を抱えていたため、ダム建設の経験者は連続してダムを担当することになる。乘京氏もまた、例外ではなかった。山形から兵庫へ、兵庫から京都へ……。

「ロックフィルダムの次はコンクリートダムを2回続けて担当しました。でも、2つともコンクリートの打設方法が違いましたね。だいたいの土木構造物は量産型ではないんです。特にダムは最終的に水をためるという目的は一緒ですが、内容はぜんぜん違う。材料が近くにあるか否か、岩盤が強いか弱いか、それぞれ土地によって条件が違うので、そこでできるダムもまた違うものになる」

同じに見えるダムだって、一つひとつ違う。多様性に満ちている。そんなダム建設の醍醐味とは?

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「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部
「建設の匠」編集部の中の人。ひとりで取材したり記事を書いたり写真を撮ったりしております。ツイッターは@KensetsuTAKUMI、フェイスブックは@kensetsutakumi2018。
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