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  • 建設論評・言語と建築

     近年、建築に言葉が失われていると感じる。建築の使い方や技術論についてではなく、建築が社会に問いかける意味や、建築の存在意義についての言葉である。そのためには言葉という存在が不可欠だからである。

     

     言語論という視点から見れば、筆者にとって20世紀最大の哲学者、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951年)の「独我論的言説」が極めて重要である。簡単に要約はできないが、筆者なりの解釈でいえば、「自己の外に、他者の世界は存在しない」ということではないか。そして世界を説明するために彼は「世界の限界は、言語の限界である」と述べ、言語の原初性とその重要性を指摘している。

     

     現代社会はその複雑さと変化のスピードにより日常の世界を変質させつつある。そうした変質に追従していくには他者の存在が意味を持つことはない。あるのは自己の研さん・学習だけで、それによって、目的を達成できる。従って、自己の世界を広げる意志と学習がなければ、現実の社会からも失速し、落伍者にもなりかねないと解釈することもできるだろう。

     

     ウィトゲンシュタインは、17世紀に活躍したフランスの哲学者ルネ・デカルトの系譜に属する。デカルトは意識する自己の存在は疑いえないとした。いわゆる「我思うに故に、我あり」である。すべての存在を疑うという方法的懐疑を経て心身二元論に立った思想であり、自己の存在の根拠を表している。

     

     前置きが長くなったが、現代社会の複雑さやスピードに対する自己という存在について考えたい。すべての存在が自己から始まるとすれば、建築も自己の思考や言葉から始まると考えるのが当然であろう。言語的思考があって、建築という具体的世界が見えてくるというわけだ。

     

     人間の脳は直観(感性)と言葉(理性)によって理解する。思考によって1つの文脈をつくり出し、論理的構築を図るのは言葉である。建築は、単に絵画のような純粋な芸術的感性だけで読み解ける対象ではなく、論理的構築がその背景には必要となる。論理が無ければ、複雑な世界を描き起こすことなどできない。そうした論理を構築するために、言語は何よりも原初的に存在するのである。

     

     さて、ここで述べているのは建築の解説の話ではない。建築を生み出すための、いわば哲学のような存在についてである。複雑な根拠がなければ、この世に出現することのない存在が建築なのであるからである。

     

     一方で、社会的存在としての建築についての根拠も示さねばならないが、社会の中に生起することは確かである。そのためには社会の中の自己とは何かを問うことから始めたい。そして、自己の存在を表すことによって、自己の世界が露になり、世界が見えて来る。すなわち、建築とは自己であり、また社会の一因でもあるということが明らかになるのである。自己の世界=建築という構図である。そのためには、言葉がなければ何も具体的建築は生まれないし、建築の表現者への責任も問うことはできない。(遍)

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    掲載日: 2020年12月22日 | presented by 建設通信新聞

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