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特別寄稿・都市社会に潜む本質を読む ―誰もが監視し、されるIT社会― 佐藤総合計画社長 細田 雅春
// 本文の表示 画像がセットされていない場合は、画像分の余白ができてしまうのでtxtクラスは使わない。 ログインしていない場合も画像は表示しない。?>【強く問われる主体的な/思考と行動の危うさ】
時代環境が大きく変わり始めている。新型コロナウイルス感染症の拡大によって、モノやヒトの動きが滞った結果、インターネットを始めとするデジタル環境にわれわれは大きく依存することとなった。例えばその1つ、経済活動を促す消費活動の面では、通信販売がさらに効率的で利便性が高い形にアップデートされ、日常的な消費行動自体が変化しつつある。また、テレビ会議のようなオンラインによるビジネスのやり取りも瞬く間に定着した。そうした日常生活全般におけるプレゼンス技術(PT)、すなわちヒトやモノの所在を把握する技術の進化による利便性の向上は現在、未曽有の速度と規模に至っている。それはまさに、フランスの哲学者ポール・ヴィリリオが1970年代に「来る時代は速度とその拡大である」と指摘したとおりである。ただし、こうした事態の出来が、疫病によるということまでは、ヴィリリオの慧眼(けいがん)も見通せなかったのではないだろうか。
一方、国家間の覇権争いにまで、そうしたPTによる「利便性の追求」をめぐる高速化が波及している。例えば、先日トランプ米大統領が表明した、中国の動画投稿アプリ「TikTok」と通信アプリ「微信」の排除である。特に「TikTok」については運営企業であるバイトダンスに対し、個人情報が中国政府による監視に利用される懸念があるとして、トランプ大統領は米国内の事業の売却を命じた。また、米政府は国内の株式市場に上場する中国企業に対する監査基準の厳格化を検討している。これにより、アリババなど、米国市場に上場している中国企業約250社が上場廃止になる可能性があるという。この背景には中国の企業であるかどうかを問わず、個人情報を企業が独占的に収集・管理することに対する米政府の危機感が透けて見える。
【監視社会は/人間社会の本質】
しかしながら、いまやわれわれの社会活動は、アマゾンやアリババといったIT企業なしには成り立たない。いわば、われわれの社会生活が消費という基準を中心にめぐり始めているのである。
消費やマーケティングに関する業務は本来、民間企業が関わる部門であったが、それも行政の仕事との境界が曖昧(あいまい)になりつつある。いうなれば、情報を管理する主体が時に国家であり、時に企業であるという極めて複雑な状況になっているということである。それは中国のみならず、米国や日本においても同様であろう。では情報が独占された結果、どのような事態が起こり得るのか。単純に考えれば、すべての個人情報が誰かに知られるという「監視社会」である。
カナダのクイーンズ大学教授である社会学者デイヴィッド・ライアン氏は『監視社会』(2002年、青土社)をはじめとする著作で、「監視」について「監視にはつねに二つの顔がある」と示唆に富む指摘を行っている。つまり、われわれは監視される対象でもあるが、監視すること自体は、社会を構成する個人の身分や出自を保証するために社会が必要とする管理機能でもあるがゆえに、われわれは監視の主体でもあり得るということだ。しかしながら、今日の情報社会においてはそうした監視の領域がますます拡大し、さらに不可視化されることにより、新たな問題が発生することが考えられるというのが彼の指摘である。
例えば、「今日の監視は、人間集団を分類・類別化する手段」であるがゆえに、個人のプライバシーという観点からの対抗手段も有効なものにはなり得ないという。
さて、筆者はこうした監視の目の存在について、欲望の本質に関わる問題として捉えている。それは、「戦争の世紀」を生きた政治学者ハンナ・アーレント(1906-75年)が「権力は人民にあり」と共和制ローマの原則を引用しながら指摘したことである。権力は暴力とは異なり、人々が集まり、言葉と行為によって活動することで生まれる集団的な潜在力であるとし、それらを判断する人たちが生み出すことこそが現実の世界であるとした。
すなわち、人間は他者との関係において初めて社会を持つことができ、信頼関係を構築できるのである。そう考えれば、国家や政府などのような権力によるいわば上からの監視に加え、市民自らの欲求に基づく下からの、あるいは横並びの監視も増えることになるのは当然のことと言えるだろう。そして双方がそれぞれに監視を強化する構造が生み出されるという矛盾に、われわれはさらされることになる。
【管理と監視の/都市空間での生き方】
ここで都市のあり方を考えるとき、監視という行為も、われわれの社会・生活を支える基本でもあるという極めて重要な問題に気づく。例えば交通を始めとする都市インフラは、滞りない運営を目指す管理に加え、異常を検知するための絶え間ない監視の下に成り立っている。それがライアン氏のいう社会の中に組み込まれた「監視」の機能である。
いまや都市を捉える視点が物理的場所性・特性よりも、フローの空間としてデジタル空間の中で生起する資本・情報・テクノロジー・イメージ・シンボルの流れで構成されるものになりつつある。それはまさにグローバル社会の中で成立する都市の概念なのだと言っても過言ではない。
そのように、これからの都市空間はAI(人工知能)やITによるさらなる利便性の向上を背景として、グローバル社会の中で流れていくように捉えられることになるであろう。しかしながら、それを享受するには、人々はますます監視の下に生きなければならないという、いわば逆説的な現実に向き合わざるを得ないのもまた事実である。先に示したように、社会に生きるという文脈の中では、個人や集団のプライバシーは管理と監視を行う主体との関係性の中で構築されることになる。それへの対処方法、すなわち、利便性を求める欲求と、ますます強化されるであろう監視とそれからの回避との接点をどこに置くのか、その境界を見失う危うさの中に、未来の都市空間に生きるわれわれ自身の思考と行動の主体的生き方がより一層強く問われることになる。
残り50%掲載日: 2020年9月16日 | presented by 建設通信新聞